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暦の上では、という言い方をすれば、もう秋なのだろう。けれど、「今日から秋です」と言われても、「はい、そうですか」とはなかなかならない。
外に出れば、まだ暑い。日差しには十分すぎるほど力があるし、葉山の海を見れば、夏はまだそこにいる。Tシャツに短パン、サンダルで歩いている人もいる。海の家がなくなったからといって、夏まで一緒に撤収してくれるわけではない。
ただ、よく見ると少しだけ違う。
夕方が早くなった。風の中に、ほんの少し乾いた感じが混じるようになった。蝉の声も、7月の頃ほど自信満々ではない。
夏が「では失礼します」と突然いなくなるのではなく、少しずつ荷物をまとめ始めている。
音楽を聴きながら夜風にあたっていると、夏と秋の境目に座っているような気がした。昼間はまだ夏なのに、夜になると少しだけ秋が顔を出す。
たぶん季節というものは、カレンダーほど几帳面ではない。
9月1日だから秋になるわけでもないし、8月31日までが夏だったわけでもない。
夏と秋がしばらく同じ場所にいる。
その曖昧な時間が、私はけっこう好きだ。
夏の終わりは、春の終わりより少し切ない。夏には海があり、祭りがあり、花火があり、旅があり、長い夕暮れがある。それが少しずつ遠ざかっていく。
楽しかったものほど、終わり際が寂しい。
だから9月1日は、「今日から秋」という日ではなく、「夏が少しずつ思い出になり始める日」なのかもしれない。
葉山の海には、まだ夏が残っている。
もう少しだけ、いてもらおうと思う。
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この夏の終わり、長野へ行き、松本城を見て、山の風景に包まれ、信州そばをいただき、初物の松茸を味わった。
そして葉山に戻って、森戸海岸のオアシスでライブを楽しんだ。
こうして並べてみると、ずいぶんいろいろなものを受け取った夏だった気がする。夏という季節は、楽しい。
でも本当に心に残るのは、もしかすると終わり際なのかもしれない。
少し涼しくなってきて、夕方が早くなって、にぎやかだったものが少しずつ静かになる。
その時、人はようやく季節をちゃんと感じるのだと思う。切ない、という感情は、悪いものではない。
大切だった時間が過ぎていくからこそ生まれる感情であり、裏を返せば、それだけちゃんと生きていたということでもある。
夏の終わりが少し切ないのは、きっと悪くない。BEACH Hayamaは、海のそばにある。
だからこそ、季節の移ろいには敏感でいたいと思う。
山へ出かけたことも、松本城の美しさに見とれたことも、初物の松茸に小さく感動したことも、ライブの音が胸にしみたことも、どれもこの季節の一部だった。また次の季節が来る。
でも、この夏の終わりの光や風や香りは、今年だけのものだ。
だから少しだけ立ち止まって、名残を味わっていたい。
そんなふうに思う、8月の終わりである。 -
長野から戻って、葉山の空気を吸う。
すると、山とは違う湿り気と、やわらかな海の匂いがあって、「ああ、帰ってきたな」と思う。
旅から戻ると、自分のいる場所の良さがあらためて見えてくる。海はまだ夏の顔をしていた。
けれど、ずっと見ていると、やはり少しだけ違う。
陽射しの角度、夕方の風、日の暮れ方。
盛夏のころの無邪気さが少し引いて、景色に陰影が出てくる。
夏が去る前に見せる、最後のきれいさなのかもしれない。旅先で見た山の静けさと、葉山の海の開放感。
どちらも良くて、どちらも今の自分には必要なのだと思う。
山では自分の内側に向かい、海では外へ向かって呼吸ができる。
その両方があって、ようやくバランスが取れる気がする。森と海岸のオアシスで音楽を聴いた夜もそうだった。
旅の余韻と、海辺の夜風と、夏の終わりの気配。
それらが混ざり合って、妙に心に残る時間になった。
何か大事件があったわけではない。
でも、こういう小さな時間の積み重ねが、結局その季節の記憶になるのだろう。 -
長野から戻ったあと、森と海岸のオアシスでライブを楽しんだ。
葉山には、こういう時間が似合う。
大きな会場ではなく、もっと人の温度がわかるような場所で、音楽が鳴る。
それだけで一日が少し豊かになる。夏の終わりのライブは、どこか特別だ。
真夏の勢いとは違う。少しだけ風がやわらぎ、夜に余白ができる。
その余白に音が入ってくると、胸の奥にすっとしみてくる。
楽しいのに、少し切ない。
笑っているのに、なぜか帰り道のことまで想像してしまう。
そんな夜がある。森戸海岸のオアシスという名前も、いい。
葉山らしくて、少し夢があって、でもちゃんと地に足がついている。
音楽を聴きながら、旅の余韻がまだ身体に残っているのを感じた。
長野の山の景色と、葉山の海辺の空気が、心の中で不思議につながる。
遠くへ行って、戻ってきて、またここで音楽を聴く。
その流れが、とても自然に思えた。ライブというのは、その日その時にしかない。
同じ曲でも、同じメンバーでも、同じにはならない。
だからこそ、季節と結びつくのだと思う。
あの夜の音は、たぶん来年の夏の終わりにも、ふと思い出すだろう。 -
普段の暮らしは、思っている以上に速い。
予定があり、連絡があり、考えることがあり、気がつくと一日が終わっている。
それはそれでありがたい毎日なのだけれど、ときどき、自分の時間が少し外側へ流れていってしまう感じもある。旅に出ると、それが戻ってくる。
長野の空を見て、山を見て、城を見て、そばを食べる。
ただそれだけのことなのに、時間の流れが少し丁寧になる。
急がなくてもいい。
全部を効率よく回らなくてもいい。
そんなふうに思えるだけで、人は少し元気になる。松本城の前に立っていたときも、湿原の景色を眺めていたときも、私は何か特別なことをしていたわけではない。
ただ、そこにいただけである。
でも、そういう時間こそが、案外いちばん贅沢なのかもしれない。夏の終わりには、少しセンチメンタルになる。
来る秋が嫌なわけではない。
ただ、過ぎていく夏がまぶしかった分、その後ろ姿を見送るのが少し惜しいのである。
旅先では、その惜しささえも、きれいに感じられる。また葉山へ戻れば、海が待っている。
けれど山で過ごした時間は、ちゃんと心のどこかに残って、しばらく私を静かにしてくれる気がする。 -
長野に来たら、やはり食べたくなるのが信州そばである。
旅先の食事は、豪華かどうかより、その土地の空気がちゃんと入っているかどうかが大事だと思う。
その点、そばはいい。派手ではないけれど、食べるときちんと記憶に残る。今回いただいたそばも、とてもよかった。
つるり、というより、しっかりとした手応えがあって、噛むと香りが広がる。
山の水で打ったそばには、やはりその土地の静けさが宿る気がする。
急いで食べるより、少し間を置きながら味わいたい。そして、うれしかったのが初物の松茸。
「ああ、もうそんな季節か」と思いながら口に運ぶと、秋の入口をひと足先に受け取ったような気分になる。
香りは華やかすぎず、でも確実に特別で、季節の先触れとして申し分ない。
初物というのは、それだけで少し縁起がいい。夏の終わりに、松茸をいただく。
なんだかそれだけで、季節のバトンを受け取った感じがする。
さっきまでTシャツ一枚で汗をかいていたのに、食卓ではもう秋の香りが立っている。
時間というのは、目に見えないくせに、こういうところではっきり姿を見せる。葉山に戻れば、まだ海の夏が残っている。
けれど長野で食べた松茸の香りは、「もう次の季節が来ますよ」と静かに教えてくれていた。
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葉山で暮らしていると、海の気配はいつも身近にある。
潮の香り、風の抜け方、空の広がり。海はいつも、開いている。
一方、長野の山の風景には、包み込むような静けさがある。湿原の前に立ち、遠くの山並みを見ていると、音が少し遠くなる。
空は大きいけれど、海の空とはまた違う。山の上に浮かぶ雲は、どこか立体的で、動きがゆっくり見える。
自然の中にいると、自分の考えごとが少し小さくなる。
それがありがたい。夏の終わりの草原は、まだ青い。
けれどよく見ると、盛夏の勢いだけではない。色の中に少し乾いた気配が混じっていて、そこに季節の進み方が見える。
「もう少しで秋ですね」と誰かが言わなくても、景色の方が先にそう言ってくる。海辺の夕暮れにも切なさはあるが、山の切なさはもう少し深い。
波の音にまぎれて流れていく感じではなく、静かな空気の中で、じわじわと胸に入ってくる。
だから山へ行くと、いつも少しだけ考え込んでしまう。
今年の夏はどうだったか。
何をして、何をしそびれたか。
誰と会い、何を大切にしたか。
そんなことを、雲を見ながらぼんやり考えていた。 -
今回の旅で、あらためて心をつかまれたのが松本城だった。
黒い城は、やはりいい。華やかというより凛としていて、見上げると静かな迫力がある。派手に自分を語らないのに、そこに立っているだけで十分に美しい。天気はすっきり快晴というわけではなかったけれど、それがかえってよかったのかもしれない。
少し曇った空の下で見る松本城は、歴史の重みをまとって、いっそう引き締まって見えた。石垣も、壁も、幾重にも重なる屋根も、どこか無駄がない。日本の建物の美しさは、こういうところにあるのだろうと思う。城というのは、ただ大きければいいわけではない。
近づいた時に「おお」と思わせる品があるかどうか。
松本城には、それがある。
見上げているうちに、観光というより、しばらく黙って眺めていたくなる。旅先では、思った以上に記憶に残るものと、そうでもないものがある。
松本城は間違いなく前者だった。
「素敵だった」という言葉では少し足りないくらい、静かで、端正で、美しかった。葉山には海の景色がある。
長野には山の景色がある。
そして松本には、時間そのものが形になったような城がある。
それを見られただけでも、この旅は来た甲斐があったと思う。 -
長野へ向かう途中、雨に出会った。
空は低く、街は濡れて、広場には赤い提灯が連なっていた。どこか祭りの余韻のようでもあり、少しだけ夢の中の景色のようでもあった。夏祭りというのは不思議なものだ。やっている最中はにぎやかなのに、終わりかけた瞬間から急に切なくなる。
提灯は明るいのに、心は少しだけ静かになる。
あの赤い灯りを見ていると、子どもの頃の帰り道を思い出す。楽しかったはずなのに、家に近づくほど胸の奥がすうっと冷えていく、あの感じだ。人が行き交う街の中にいても、季節の変わり目はちゃんと見える。
濡れた舗道、灰色の空、にじむような看板の明かり。
夏はまだそこにいるのに、もう全力ではない。少し疲れて、静かに舞台袖へ下がっていくようだった。葉山の海辺でも、夏の終わりには独特の空気がある。
昼はまだ明るいのに、夕方になると、海の向こうから少しだけもの悲しい風が吹く。
長野へ向かう途中の雨の街でも、同じ気配がしていた。
季節が動く時には、山も街も海も、似たような表情を見せるのかもしれない。 -
8月の終わり、少しだけ遠くへ行きたくなって、長野へ出かけた。
葉山にいると、夏はなかなか終わらない。海は明るく、人もまだ薄着で、夕方になっても空気のどこかに熱が残っている。けれど、山の方へ向かって車を走らせると、その熱が少しずつほどけていくのがわかる。空はまだ夏の雲を抱えているのに、風だけが先に秋へ向かっていた。
こういう時期が、私は案外好きだ。盛り上がっていた季節が、静かに片づけを始める感じ。にぎやかだった店の灯りが、一つずつ落ちていくような、あの少しさびしい感じである。旅のはじまりには、いつも少し期待がある。
でも夏の終わりの旅には、期待と同じくらい、終わっていくものへの愛おしさがある。
楽しいことを探しに行くのに、どこかで「もうすぐ夏が終わる」と知っている。
その矛盾が、なんともいえずいい。長野へ向かう道の空は広く、途中で見上げた雲は、まだ堂々とした夏の顔をしていた。
それでも、その下を吹き抜ける風は、もう次の季節の気配を連れてきていた。
今年の夏も、そろそろ終盤である。 -
子どもの頃、夏休みは40日もあった。
今考えると、とんでもなく長い。
大人になると、
仕事の合間に海へ行き、
夕方に一杯飲み、
夜にレコードを聴く。
夏休みは40日もない。
その代わり、
一日の中に小さな夏休みを作ることはできる。
海を見ている30分。
ジャズを聴いている40分。
冷たい酒を飲む1時間。
大人の夏休みは、
細切れなのである。
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ジャズを聴く。
サックスを吹く。
酒を飲む。
横浜へ行く。
人と会う。
仕事をする。
いろいろやって、
結局また葉山へ戻ってくる。
別に都会が嫌いなわけではない。
むしろ好きだ。
横浜も好きだし、東京にも行く。
だからこそ、
海へ戻ってきた時に、
「ああ、帰ってきた」
と思うのかもしれない。
海の近くで暮らすというのは、
毎日リゾート気分で過ごすことではない。
普通に働いて、
普通に疲れて、
たまに飲みすぎて、
それでも海がそこにある。
そのくらいが、
ちょうどいい。
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「なぜ海へ行くんですか」
と聞かれても、うまく答えられない。
泳ぎたい日もある。
身体を動かしたい日もある。
ただ海を見たい日もある。
何もしない日もある。
理由が一つではない場所は、長く付き合える。
BEACH葉山も、たぶんそういう場所なのだと思う。
何かをするために行く。
そして、
何もしなくてもいい。
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吹奏楽を聴いて、少し清々しい気持ちになったあと、
駅に行ったら巨大なピンクの柱。
「うんこミュージアム」。
人生は油断できない。
感動した直後に、うんこである。
でも、こういう落差は嫌いではない。
美しいものだけで一日ができているわけではない。
ジャズも海も酒もあり、
うんこミュージアムもある。
横浜は懐が深い。
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クイーンズスクエアを歩いていたら、中学生の吹奏楽演奏会。
思わず足が止まった。
大人になって長く楽器をやっていると、
音色がどうだ、
リズムがどうだ、
アドリブがどうだ、
などと言い始める。
でも最初は違った。
音が出ただけで嬉しかった。
曲が最後まで吹けたら、もっと嬉しかった。
あの頃の気持ちは、
時々、中学生たちに思い出させてもらう。
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昼の海は、こちらに話しかけてくる。
光る。
風が吹く。
人が泳ぐ。
子どもが走る。
でも夜の海は、ほとんど何も言わない。
月明かりだけが水面に落ちて、
波の音が続いている。
黙って海を見る時間というのも、
たまには必要なのだと思う。
何かを考えるためではなく、
何も考えないために。
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テーブルの上に、
テナーサックスのネックとマウスピース。
その横に、マンゴー。
どうしてこうなったのか、自分でもよくわからない。
でも人生とは、案外こういうものかもしれない。
仕事だけでもない。
音楽だけでもない。
健康だけでもない。
マンゴーだけでもない。
いろいろなものが同じテーブルの上にある。
それくらいが、ちょうどいい。
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軽く一杯のつもりだった。
この言葉ほど信用できないものはない。
旨辛純米。
もう一本は、兜のラベル。
こういう酒を目の前に並べられると、
「今日は控えめに」
という決意は、かなり弱い。
海で身体を整え、
夜に日本酒で元に戻す。
健康とは、なかなか奥が深い。
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横浜駅のホームを歩く。
みんな急いでいる。
乗り換え、仕事、待ち合わせ。
東京や横浜で暮らしていると、知らないうちに歩く速度まで速くなる。
葉山へ向かうと、不思議とそれが少しずつ遅くなる。
駅を出て、海が近くなってくる。
時計は同じ速さで動いているはずなのに、
時間の流れ方だけが違う。
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最近、古いジャズのレコードを買った。
Steve Grossmanの『LOVE IS THE THING』。
Cedar Walton、David Williams、Billy Higgins。
1985年、ミラノ録音。
40年以上前の音なのに、針を落とせば、すぐそこで演奏しているように聞こえる。
海もそうだ。
ずっと昔からそこにあるのに、今日の波は今日しかない。
古いものと、新しいもの。
その両方を楽しめる歳になってきた。
悪くない。