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海がある。
山がある。
それだけで、暮らしの輪郭は少し変わる。都会の便利さは強い。
情報も早い。
何をするにも困らない。けれど、便利さだけでは人は整わない。
海の近くにいると、
天気を見るようになる。
風を感じるようになる。
波の様子で一日の気分が変わることもある。山の近くにいると、
季節の移り変わりに敏感になる。
緑の濃さや空気の匂いで、時間の流れを知るようになる。それは少し不便でもある。
でも、その不便さの中に人間らしさがある。自然の近くで暮らすというのは、
単に景色がいいということではない。
自分が自然の外にいる存在ではないと、日々思い出させてもらうことだ。新年度。
何かを始める人は多い。
でも同時に、何に戻るべきかを考える時期でもある。海や山は、その答えを案外静かに示してくれる。
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ヨガというと、身体を柔らかくするもの、
あるいは健康のための習慣と思われがちだ。もちろんそれもある。
でも本質は、もう少し深いところにある気がする。ヨガは、何かを加える時間ではない。
むしろ、余計な力を抜く時間だ。呼吸を整える。
姿勢を整える。
意識を今に戻す。それだけのことなのに、人は普段それが驚くほどできていない。
考えすぎる。
力みすぎる。
反応しすぎる。自然の中でヨガをすると、それがさらによく分かる。
海の音、風の感触、光の強さ。
そういうものが、無理に頑張らなくていいことを教えてくれる。整えるとは、強くすることではない。
削ぎ落として、本来の状態に戻すことだ。その意味で、ヨガはとても現代的な時間だと思う。
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アウトリガーカヌーは、見た目以上にシビアな乗り物だ。
一人だけ力が強くても進まない。
一人だけリズムがずれても乱れる。
全員が揃って初めて、艇はきれいに前へ進む。そこには、仕事にも通じる本質がある。
組織では、個人の能力ばかりが注目されがちだ。
けれど実際には、全体の呼吸が合っているかどうかの方がずっと重要だ。誰かが目立つことより、
全員が無駄なく動くこと。
無理に競うことより、
同じ方向を向いていること。アウトリガーカヌーは、それを言葉ではなく感覚で教えてくれる。
海の上では、ごまかしがきかない。
揃っていなければ、進まないからだ。だからこそ、あの乗り物には面白さがある。
チームとは何かを、これ以上なく分かりやすく見せてくれる。 -
湘南の海には、不思議な力がある。
華やかさもある。
軽やかさもある。
けれど実際に海に入ると、自然は決してこちらに合わせてくれない。波は待ってくれないし、
思い通りにもならない。そこには、自然の側のリズムがある。
サーフィンをしていると、それがよく分かる。
焦っても乗れない。
力んでも崩れる。
読み違えれば、簡単に置いていかれる。だから海では、実力より先に姿勢が問われる。
自然を相手にするとき、人は少しだけ謙虚になる。
そして、その謙虚さが結果的に一番大事だったりする。湘南の海は、ただ気持ちのいい場所ではない。
人間の都合では動かない世界を、静かに見せてくれる場所でもある。 -
4月になると、街の空気が変わる。
新しい人が増え、
新しい目標が語られ、
新しい生活が始まる。けれど、海は変わらない。
山も変わらない。
風も、いつも通り吹いている。だからこそ、新年度には一度、自然の中に身を置く意味がある。
海に行く。
山を歩く。
波を見る。
ただそれだけで、頭の中に溜まっていた余計なものが少しずつ落ちていく。人は忙しくなると、足すことばかり考える。
予定を足し、仕事を足し、情報を足し、役割を足す。でも本当に必要なのは、足すことではなく整えることだ。
自然の中では、その感覚を思い出せる。
新年度に必要なのは、勢いだけではない。
自分の軸を取り戻す時間だ。 -
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次の冬に備えて薪を移動(してもらいました)
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春が来ましたね
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観光客はこう聞きます。
「そのお店、どこですか?」普通なら、住所を言います。
あるいはGoogleマップを開きます。
でも葉山では違います。「元○○があったとこの近く」
「前はパン屋だった場所の手前」
「坂をちょっと降りたとこ」
「森戸方面に行く途中の、なんか白い建物」情報量は多い。
でも、座標はゼロです。しかも葉山の道案内には、
“ちょっと”が多すぎます。「ちょっと先」
→ 徒歩3分のときもあれば12分のときもある「すぐ」
→ 車ならすぐ、人間にはそうでもない「坂をちょっと」
→ それは“坂”ではなく、ほぼ登山さらに厄介なのは、
葉山の人の頭の中には
自分専用の地図が入っていることです。その地図には番地はありません。
「昔あそこにあった店」
「誰々さんちの角」
「前に猫がいつもいたあたり」
みたいな記憶がレイヤーとして重なっています。つまり葉山の案内は、
地理ではなく記憶です。だから初めて来た人は迷います。
でも三回くらい迷うと、
なぜか急に分かるようになります。葉山の道は、
覚えるものではありません。
慣れるものです。 -
葉山に来たばかりの人は言います。
「今日、海きれいですね」
でも、ちょっと葉山に慣れてくると、見ているのは海ではありません。
風です。「今日は南だね」
「午後ちょっと上がるかもね」
「今はまだ大丈夫そう」何が大丈夫なのかは分かりません。
でも皆、分かった顔をしています。観光で来た人は、空の青さに感動します。
葉山の人は、木の揺れ方と旗のなびき方を見ています。しかも風の話をしている人ほど、
別に船に乗るわけでもない。
サーフィンをするわけでもない。
ただ、異様に風に詳しい。葉山では、天気予報は参考資料。
最終判断は、
「今の空気」で決まります。都会では“気温”を確認しますが、
葉山では“体感”の方が強い。
そしてたまに、
「今日は見た目より寒い」
という、哲学みたいな会話が始まります。住んでいくうちに分かります。
葉山の人は、海辺に住んでいるのではありません。
風の中に住んでいます。
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久しぶりに都内に行くと、
まず思います。
「速い」
人の歩くスピード。
電車の流れ。
会話のテンポ。
全部が速い。
そしてもう一つ。
「情報が多い」
看板、音、光。
ずっと何かが入ってくる。
最初は便利だと思う。
でもしばらくすると、
ちょっと疲れる。
そして葉山に戻ると、
こう思います。
「静かだな」
音がないわけではない。
でも、
必要な音しかない。
この違和感は、
どちらが良い悪いではありません。
ただ、
基準が変わったということなのでしょう。
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葉山って、
好きな人はとことん好きになります。
でも、
合わない人には全然合わない。
この差、けっこうはっきりしています。
ハマる人は、
「何もない」を楽しめる人。
ハマらない人は、
「何かないと不安」な人。
葉山には、
便利さも、刺激も、
それほどありません。
でもその代わりに、
余白があります。
ハマる人はその余白に、
自分で意味を見つける。
ハマらない人は、
その余白を“空白”だと感じる。
だから同じ景色を見ても、
片方は「最高」と言い、
もう片方は「退屈」と言う。
葉山は場所というより、
感じ方のフィルターです。
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葉山で一番贅沢なのは、
高級レストランでも、
特別なイベントでもありません。
何もしていない時間です。
海を見て、
風を感じて、
ただ座っている。
これだけ。
でも不思議と、
満たされる。
最初はこう思います。
「何してるんだろう」
でもそのうち、
こう変わります。
「これでいい」
葉山の贅沢は、
“何かを足すこと”ではなく、
“余計なものがないこと”
です。
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葉山には2つの海があります。
森戸海岸と一色海岸。
どっちがいいか?
正解はありません。
ただ、なんとなくあります。
森戸はちょっと開けている。
一色はちょっと奥まっている。
森戸は来る場所。
一色は居る場所。
この感覚、説明できないけど、
地元の人はだいたい共有しています。
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蕗のとう。
タラの芽。
菜の花。
葉山の春は、
ちょっと苦いです。
初めての人は、
こう言います。
「ちょっと苦いですね」
地元の人はこう言います。
「いい苦さだよね」
ここに、
大きな違いがあります。
葉山では、
苦味は“失敗”ではなく、
季節のサインです。
この苦味が来ると、
「ああ、春だな」
となる。
これが分かるようになると、
だいぶ葉山に馴染んでいます。
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葉山に住むと、最高です。
でも、ちょっとだけ後悔する瞬間もあります。
例えば、
夜。
店が閉まるのが早い。
「あれ、どこもやってない」
となる。
あと、
風が強い日。
想像以上に強い。
洗濯物が消えます。
さらに、
車がないとちょっと不便。
ここで気づきます。
葉山は、
“便利な場所”ではない。
でもその代わりに、
別のものがあります。
静けさとか、余白とか。
だから結局、
戻れなくなる。
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葉山で暮らしていると、
ある日突然こうなります。
「これ、もらったからどうぞ」
袋を開けると、
みかん、レモン、夏みかん。
しかも大量。
自分では買っていないのに、
なぜか家にある。
そして気づきます。
葉山では、
果物は流通ではなく、
人間関係で回っている。
結果として、
冷蔵庫がこうなります。
「減らない」
そしてまた来ます。
「これもどうぞ」
無限ループです。
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初めて来た人は、
こう聞きます。
「何が有名なんですか?」
でも葉山では、
あまり意味がありません。
なぜなら、
答えはいつもこうだからです。
「今日はいいよ」
何が?
と思いますが、
これが全てです。
葉山の魚は、
種類よりも“状態”。
同じアジでも、
・今日のアジ
・昨日のアジで全然違う。
だから、
地元の人はこう言います。
「今日はイワシいいよ」
これが一番信用できる情報です。
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葉山には、ちょっと不思議な文化があります。
それは、
旬を自慢しない。
例えば、
「今日、蕗のとう採れたよ」
と言われても、
都会のように
「すごいですね!」
とはなりません。
だいたいこう返されます。
「そろそろだと思った」
普通すぎる。
でも、
これが葉山です。
季節のものがあるのは、
特別ではなく、
当たり前。
だから、
マウントにならない。
むしろ、
気づくかどうかの話になります。